昭和44年12月23日  朝の御理解



  第100節、100節を頂きます前に、え~99節を、まあ読んでみます。
「無学で人が助けられぬということがはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学者が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此の方は無学でも、みなおかげを受けておる。」と、次の100節を頂きますためにここんところを、ちょっと、お~説明いたします。
  え~「学者が身を食うということがある」と、私は、え~私は、財産家と、ね、え~、あの沢山の言わばお金ならお金を持って人が、あのお金が身を食うということもあることに思うんですね、学者が身を食うということは、ね、まあ言うなら最高学報を学び、そして学識をゆたかにし、まあ、え~、そういうまあ学問をした人がですよ、学問を身につけた人が、その学問のために苦しむ、学問のために難儀をすると、頭が良かったばかりに難儀をするということがあるということは、沢山な財産家に生まれた、いや沢山の財産を築いた、けどもその財産が身を食うということがあるということも言えると思うんですよね、ですからこれまた、健康ということも言えます、ね、柳に風折れ無しと言うように、病弱な人がかえって長生きをするといったような場合もありますし、え~、まあ健康をおこっておる人が、ね、その健康のために難儀をする、強いばかりにかえって困る事になるといったような、いわゆる健康が身を食うということもあるわけです、まあ他に色々例をとればあるでしょう、ね、特別の才能を持っておったということが、その人が不幸にならなければならなかったという、お~例は沢山ありますよね、そこでここでは、え~、学問はなくても、財産はなくても、ね、健康ではなくても、幸せになれれる道、と、そういう道がいわゆる金光大神の道だということになるのだ、だから勿論それは、なら健康であったり、財産があったりしたら不幸、不幸せかと、もうそれもひっくるめてのことです、ね、財産、ね、健康、ね、特別な、あ~才能、といったようなものを持っておる人でも、ね、それを持たない人でも、幸せになれれる道だと、ね、だから金光大神の道というのは、あの、そういう道を教えて頂くのだと、そこで100節にまいります。
「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教える」ね、金光大神の道はどのような、あぁ環境にあっても、場合であっても、そこからおかげが受けられれる、またはそこから、え~、幸せになって行けれる、その道を教えて下さる、ね、だけではなくてですそういうあり方にならせて頂くということがです、ね、家繁盛子孫繁盛のおかげに必ず繋がるという道なのだ、そこでここでまた、99節に戻りますとですたいね、今私が申しました、あ~例えば金はのうても、不健康であっても、ね、幸せになれれる道と、ね、それは幸せの根本を、を~分からして頂くのであって、え~、そこのところの根本的なところが分かって、え~金光大神の道を行じて行くと、これは必ず、子孫繁盛家繁盛の道に繋がっていくと、だから金光教の信心頂く全ての信者がです、そういうおかげの頂けれる道を私共は、習うておるのですから、その道を行じなければならないということを、になりますね結論は。
  え~、御理解16節にね、いわゆる金光大神の道ということを、ここに表現しておられますね、のに、表現はここだけでしょう、え「金光大神の道は無常の風が時を嫌うぞ」と、いう風に言っておられます、「金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ」と、御理解16節ですね、「無常の風は時を嫌わんというが、金光大神の道は無常の風が時を嫌うぞ」と、いわゆる無常の風が時を嫌うぞということはどういうことだろう、例えばその人は、ね、貧乏をしなければならない運命家にあっても、この人はいついつはもう、死っ、死ななければならない運命におっておってもです、死なんですむ、またはここに思われることは、ね、金光大神の道は無常の風が時を嫌うと、いうのですから、例えば、あの~、難儀な運命にある人がです、ね、例えば貧乏しなければならんという運命の元にある人がです、百万長者になれれる道だということが言えるでしょ、いわゆる「金光大神の道は」とここに言っておられる、いわゆる特に今日は、このここんところをそう思うんですね「金光大神の道」ということ、ね。
  それでもこの、道、道によって、え~、幸せを頂いていこうというのが、金光様の御信心ですから、まあ何と言うですか、実にその、ん~、なんですかね、いわゆる迷信的なものではないということを感じますね、何か漠然とその~、奇跡を受けたり、おかげを受けたりというのではなくてその、道によって助かっていこうというのですからね、その道、健康なら健康になる道、分限者なら分限者になれれる道を行じるから、健康なら健康を約束され、または分限者が約束されるんです、ですからもう、その理路整然としてるわけですね金光様の御信心は、雲をつかむようなといったようなところがない、ね、しかもその道は、例えば、あ~、金光教の信心が、ここにもう百十年という、今年お年柄でしたから、百十年という歩みを、お~続けてきておりますから、そこには様々な、まあいわゆるまたおかげを受けてきたと同時に、金光教の信心にゃ煮ても煮つかんといったような、まあその考え方やらですね、え~思い方が、言わばそういう垢が付いてきてると、百年間の間に、その中の私は、え~一つ、だから、金光教は、え~、迷信打破の信心だと、これはまあ自他共にそれを言い、みんなもそれを認めてます、ね、金光教の信心は迷信、はない、迷信打破の信心だ、宗教だと、ところがですね、その金光教の中に迷信を、金光教の信者の中っ、金光教の教えを頂いておる者の中に、金光教だけの迷信が出けてきたという感じが私はするんよんです、ね、それは例えば、あの他教会ね、合楽で言うならば、たい合楽以外の教会に御神縁を頂いておる人達が、なかなかおかげが受けられん、そのために合楽では、まあ御ひれいが立ってござりよんなから、おかげが頂けるなから、と言うてお参りをしてくる、そうしておかげを受ける、それをどういう風に言うかと言うと、そういうことは道を間違えておると言うのである、金光様の信心じゃないって、それは道を間違えて、よかろうはずがない、とそういうところにですね、道を持ってくるんです、金光大神はそういうことを教えておられん、「信心は相縁機縁」と教えておられる、それをね、途中から出けたこれは、言わば迷信です、それは迷信である証拠には、本当に合楽に他所の教会から合楽に転籍してきておる信者はおかげを落としておるかと言うと、ますますそのおかげを受けておるです、だからそういう迷信を振りかざしてですね、「お前は道を間違えておるぞ」といったようなことを、本気で言う、ね、まだいくらもあります、百年の間にそういう、う~その、ものが、金光教だけの迷信がですね、それが真しやかにそれが吹聴する、それで本当におかげ頂きたい、合楽におかげ頂きたい、合楽で教えを頂きたい、けれどもそういうことを言われるもんですから、そのまた返っておかげ落としたらおっ、恐いというようなことでですね、いわゆるより有り難い信心に触れようと思うても、触れられない人も、沢山あります、ね、それはその道という、金光大神の道というものをですね、間違えて、途中で出けた言わば道である、いわゆる本当ではない道ですから、迷うた道です、それを平気で言うたり教えたり、しておるようなことがあるわけですね。
  「道という言葉に迷うことなかれ、道は教えを踏む他はなし」と、ね、その道という言葉に、もう幻惑されてしまってるわけです、「道という言葉に迷うことなかれ、道は教えを踏む他はない」、金光大神の道というのは、結局、あの、まあ教え、ならここに、御理解だけ、いわゆる100節、神誡神訓合わせて、え~、ね、百何十節という、まあそれが教典になってるわけですけれども、ね、その教えを頂いてです、その教えを守り、教えを行じていくということが、道を行ずることなのだ、だから、どこの教会の人がおかげを受けきらん、合楽に来ておかげを受けるということが、そこにあるわけですね、なら例えば御神縁を頂いた、そこの先生のおかげで本当に助かった、ね、そういう例えばことをです、例えばその恩を忘却するというようなことは良くない事ですよね、けども病むに病まれん信心をです、身につけたいもっと高度な信心を頂きたいというところから、ならその人が他の教会に移るというのは、言わば小学校から中学校へ移るようなもの、または中学から高校に移るようなものですから、それは実は有り難い、本当な、言わば道を求めていく者のそれは姿勢なんだ、だから例えば教会なら教会にです、ね、大学から小学校まであるような、ね、ピンからキリまでの、ことの整うた教会であらなければならないことを感じますね。
  それ金光大神の道というのは、そういう道、いわゆる教えを踏む他はないという道、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ、その、うんなら道がです、ね、金光大神の道の中にはです、99節にありますように、ね、学が身を食うと、返って持っておるもの、財産が健康が、返ってその人を害するもの、のようなこともある、金光大神の、お~、は、無学でも人が助かっておると、そこで、え~例えば何も持たなくても、ね、それは不健康であっても金を持たなくても、無学であっても、助かって行けれる道なんだ、しかもそういう道を行じていきよると、十も持たない人がです、持てれる言わばおかげの頂けて、いわゆる子孫繁盛に繋がるおかげの受けられる道、ね、貧乏しなければならない運命の元にあってもです、百万長者になって行けれる道を教えて下さる、それが金光大神の道だと、そんならその金光大神の道というのは、そういう、う~例えば運命を変えて行くというようなですかね、大変な道なんだ、言わば、無常の風が時を嫌わぬというけれども、金光大神の道は無常の風が、を、の時をきらわすとこういう、ここに私はその、金光教の信心は、それぞれ、え~の、運命が変ってくる、ね、健康になれれる、繁盛、いわゆる百万長者になれれる、しかもそれが子供にも孫にまでも伝わっていく、子孫繁盛の道を教える、そこでめでためでたの若松様よとこういうことがです、言わば若松が段々大きくなって、そしてそれが、あ~枝が栄え葉がしこって行くという、ことをです、言わばめでたいというのである、ね、だからははぁこの道さえ行じて行けばそこに到達が出来るというです、その、そこのこの道をです、私は、あぁその、行じることの生き方をですねしなければならんと。
  これはあの、(?)さんの言葉の中に、「この道より我を生かす道無し、この道を歩く」ね、「この道より我を生かす道無く、この道を歩く」、これはあ~今日私の頂いておる御理解の、お~、皆さんに分かって頂くわけには、ここんところを分かって頂きたいと思っておるわけなんです、ね、この道より自分を生かす道はない、生かす道というのは、本当に家繁盛子孫繁盛に繋がる道、はもう金光大神の道以外にはないと、分限者になる道、健康になる道はまた他にも色々あるでしょう、ね、金を儲かるということは金光教じゃなくても、金沢山儲かるでしょう、けれどもそれではね、それが返って学が身を食うことになる、作った健康が、頂いた財産が返って身を食うと結果になるような事があろうけれども、金光大神の道を行ずるということはです、それがない、ね、この道、我を生かす道、これっ、この道より我を生かす道無く、この道を歩くという決意がです、望まれるわけであります、ね、もう私共が家繁盛子孫繁盛のおかげを頂くための、お~道というのはここに極まった、それは金光大神の道以外にはないと思い込ませて頂くということなんだ。
  私そこんところがです、え~、昨夜、田主丸の共励会から皆さん帰ってみえた時にそのこと話すんです、だからそこんところまでの思い込みをですね、作らして頂くことが大事だということなんだ、今私はその道について色々御理解17節ですかね、18っ、16節かね、御理解16節、99節を引用して、私が今日はめでためでたの若松様よという、御理解100節を、お~皆さんに聞いて頂いた、ね、ですから段々私が思い込ませて頂かなければならないことなんだ、それが思い込みが出来るまでが信心なんだ、この道を歩かっ、より他にはないと、ということはどういうことになるかと言うとね、もう教祖様の教えて下さったことをですね、身を持って行じて行く以外にはない、幸せはここにしかない、これなら子孫繁盛に繋がるて、子にも孫の代におかげが頂けれる道ということをです、思い込ませて頂かなければ、思い込めれるところまで信心をしなければならない、それをまちっと具体的に言うとです、ね、親先生の言われる通りの私は信心をさして頂く以外にはない、もうその親先生自身がね繁盛の道を辿っていなかったらいけませんよ、けどもここで言うならば私自身が、繁盛の道をもし辿っておるなら、皆さんも親先生の、が辿った道を歩く以外にはないです、または親先生が言うことを聞いてそれを行の上に現して行く以外にないです、そうでしょうが、ねだからそれにはです、もうそれより他にはないという思い込みを作れとこう言うのです、もう親先生の言われる、反対の事をして、絶対いかにも繁盛しよるようであっても、それは本当の繁盛には繋がらんって、その繁盛は返って身を食うって、ね、「そりゃぁあ~親先生は右っち言いなさったばってん左したばってんおかげ頂いた」と、ところがそういうおかげはね、返って身を食う結果になるて、学が身を食うように、ね、そのこの辺のところをね、本当の御信心頂く者は本当に芯に、そこで私と皆さんとの間にです、信じ信じられるというものが、どうでも必要になってくるわけです、ね、それが家繁盛子孫繁盛の道に繋がる、ただね、お願いをしてお取り次ぎを頂いて、今日は商売の繁盛をしました、今日の、はおかげで集金がよりましたと、というようなことの積み重ねではいけないということです、ね、お取り次ぎを頂いてから、医者の助からん、言わば無常の風は時をきらわすとおっしゃるが、本当にない命が助かったという、それだけではいけないということです、ね、いわゆるそれを目先目先のおかげと言われております、なら目先目先のおかげがいけないのじゃないけれども、その目先目先のおかげを頂いて行きよればです、そういうおかげが積み重なって行けばです、いわゆるめでためでたの若松様よというような、道に繋がるかと言うとそうじゃないです、いわゆる金光大神の道に繋がらなければならないんです、ね、ですから金光大神の道に繋がる、また繋がらなければ、いわゆるめでためでたということにならないんだと、ね、いう思い込み、ね、それを私は楽器に例えて夕べ話したんですけれども、ね、例えば、あ~、三味線なら三味線を稽古いたします、ね、これはですね、えその、そのお~、教えることはの出来る事と出来ない事があるんです、例えば三味線を教えることは出けても、調子をね、調子を教える事は出来んです、これは習っておる者が体得しなければ出来んのです、信心もそうです、ね、ですから三味線の稽古をさして頂いたら、これは三味線だけのことじゃない、楽器は全てそうだろうと思うですけれど、その三味線の稽古を初めてですよ、(?)からやりますよ、まあ三つ下がって五つ下がった十上がったと言うてもです、ね、それ、それだけでは、すぐ、あきっ、その、そのことにあきっ、あいてきます、そうして段々稽古をしていく内にです、これは教えようとして教えられない、言わば調子を会得するんです、調子を体得するんです、調子が分かるようになったら一人前だと、まあ一人前と言うとじゃないけれども、まあまあと言うわけなんですよね三味線を稽古する、そう、はぁもう調子が分かるごつなったら大丈夫とこういう風に申します、調子が分かるようったら、自分で家で引けるんだ、お師匠さんとこで習うてきたけん、引こうと思うてもどっこん家で、さあ三味線の調子があわん、歌にならない、ね、そこでその調子の体得というところからです、本当の音色が出てくるわけです、ですから信心のですね、そこの調子を頂いて、私が、え~良く、まあ誰彼を、して言うことがありましょうが、この頃あの人、この頃お参りが遠ざかってござる、この頃(?)になってござると、まあ大丈夫がのっち、何故かってその人は調子を会得しておることを私は知っておる人の場合はそれを申します、ね、ただ断片的なおかげを受けておかげの有り難さを知っておるというようなことでは、とても心許ないけれどね、その調子を覚えておるから、あの人は放っとったちゃよかとこう言うわけ、ね、ですから皆さんそこの調子を頂かせて頂くと、調子が分かるところまで、信心をさしてもらわにゃいけません、それもただ、なら毎日お参りをして、お願いをしておるというだけでは、何十年経ったってその調子は覚えません、いわゆる金光大神の道じゃないからです、ね、道の体得と、ね、それを体得さして頂くためにです、ね、本気で教えに取り組ませて頂かなければいけん、ね、そこからです、ね、信心が信心を教えてくれる、調子が出てくるのです、ね、「この道より我を生かす道無し、この道を歩く」と、金光大神の道以外にはないと、金光大神の道を体得することによって、家繁盛子孫繁盛のおかげを受けられるんだと、私は思い込ませて頂くところからです、金光大神の道とはどのような道かとそこんところに追求もありゃぁ、言わば共例もあるわけなんです。
  今日は御理解100節をそのような風な意味において頂きましたですね、今日の99節と、ね、16節を、を~一応、聞かせて頂いて、そして御理解100節ということになってまいりますと、丁度そのようなことになるようになります、この前御理解100節を頂いた時には、子孫繁盛ということについて頂いたですね、はぁあの時も、はぁ御理解100節の素晴らしいということをです、私はあん時感じたんですけれども、今日は言わば、家繁盛子孫繁盛と、ね、子孫繁盛だけではない、ね、言うならばどういう運命の元にある人でも、ね、必ず運命を好転して行けれる道、しかもそりゃ子に孫にも伝わって行くほどしの道、金光大っ、それを、いわゆる金光大神の道と、見ること、なら金光大神の道を、を頂く以外にはない、会得体得する以外には、私の本当の幸せというものはありえないんだと思い込ませて頂いて、そこんところのおかげを今日は私は調子の体得とこう申しましたです、ね、そこんところまでをです私は体得さして頂いたら、後は信心が楽しゅうなる、ね、より難しい言わば問題が起こってもです、難しい問題にちょっ、言わば取り組むことがまた有り難いことになる、例えばなら三味線の稽古でも同じ事、ね、まあ(?)引いておる間は、とてもあげなん難しかつが覚えられるじゃろかとこう思う、段々稽古して行く内に、そういう大物なら大物、難曲なら難曲が、引きこなせれるようになる頃、なるほど難しい、ほらぁ(  ?  )、ね、けれどもです、もう叩かれるだんのこっちゃなか、それ、それが引きこなせて行けれる楽しさというのはまた格別だ、信心もそうです、ね、だからこの信心を楽しゅうとか嬉しゅうとかと、頂けるためにはまずそこの、お~調子の体得、をまず頂かなければいけない、ね、そこの体得が出来るところからです、もうあの人は大丈夫といったようなものを、を感じさしてもらいます、ね、ただ金光様の信心しよれば必ず祝いめでたの若松様よっちいうようなおかげを頂くということは決してありません、金光大神の道を行じて初めてそこに繋がっていくわけですからね。
                                                                          どうぞ。


入力者:誠輝